兵庫県・公衆浴場無料駐車場完備軟水仕様

菊水温泉・神戸市長田区

菊水温泉

菊水温泉特選情報
美肌の湯 オール軟水 
「肌」しっとり・「髪」サラサラ・「湯」つるつる「体」ぽかぽか
菊水温泉の湯は、軟水装置により軟水(単純アルカリナトリウム水)に変えたものです。
軟水自体が洗浄能力を持ち、軟水に浸かっているだけで、毛穴の汚れを落とします。
皮膚の自然治癒能力をも向上させてくれ、皮膚が弱い方にも適しています。
菊水温泉では、そんな軟水を全浴槽、シャワー、カラン全てに使用し、軟水の恩恵を、より豊富に取り入れられるようにしています。
是非とも家庭風呂では体感できない軟水をお試し頂き、その違いを実感してみて下さい 。
◆「ふろの日」
・70歳以上の方:入浴料半額
 ※年齢を確認できるものを必ずご提示ください。
・毎月26日午後2時~4時 実施
※休業日の場合、振替はありません。  
◆「ボンタン湯」:2月6日頃
 ・休業日の場合、振替します。

◆「しょうぶ湯」:5月5日(こどもの日)
 ・休業日の場合、振替します。
◆「ゆず湯」:12月冬至 
 ・休業日の場合、振替します。
 
◆「薬湯」「アロマの湯」:11月頃~2月頃

 


【軟水の効用】
◆カルシウムや金属イオン等を取り除き、ナトリウムイオンに交換した最高の水ですので金属石鹸が形成されません。
◆金属石鹸が肌や毛穴に付着しませんので皮膚の新陳代謝が活発になり、細胞分裂が盛んになり皮膚が生き生きします。
◆金属石鹸が皮膚に付着しないので、つるつる、ぬるぬるしますが、それが素肌であり石鹸を多く使いすぎているからです。
◆石鹸やシャンプーの量は3分の1くらいでご使用下さい 。
◆軟水ですから、無添加石鹸でも洗浄力を発揮できますので、環境にも肌にもやさしい無添加石鹸をお勧め致します。
◆軟水での入浴を続けますと、角質層パターンの均一性が増加し皮膚の保水性が高まる事が医学的にも立証されています。
よって、小じわ予防、枝毛予防などに役立ちます。
◆主湯
少し熱めの銭湯定番の代表湯、湯上り時に入浴すると、保温効果抜群で身体の芯からポカポカします。

◆寝風呂(遠赤外線)
ゆったりと寝ながら入浴できるリラックスバス、気泡が全身を包み、じっくりと身体内部を温めてくれます。
冷却マクラでのぼせ防止、お子様にも無理なく入浴できる広めのお風呂になっています。

◆クリニックバス
座りながら気泡が全身と患部を包み込むように刺激しながら、身体全体を温めてくれる健康設備。
半身浴でゆっくりと入浴するのが効果的です。
◆フィットネスバス
3段階の切り替え式フィットネスバスで、新陳代謝、血行促進ダイエット効果に期待できる近代浴場設備。
お好みの水圧で腹部、背中などを刺激できます。
◆露天風呂 
外気の心地良い開放感あるお風呂によるリラックス効果、 ストレス解消効果がある、休憩スペース完備の人気湯です。
広くゆったりとした露天風呂でじっくりご入浴下さい。
菊水温泉 営業案内

◆営業時間:ひる2時~夜11時30分(最終受付は夜11時)
※上記営業時間は令和4年10月1日より。
◆定休日:毎週水曜日
※当建物内は、全て禁煙です。ご協力お願い致します。


◆入浴料金
・大人(中学生以上):450円
・中人(小学生):160円
・小人(乳幼児): 60円
・サウナ(貸バスタオル付):200円
・手ぶらセット(入浴料込) :750円
(シャンプー・リンス・石鹸・タオル・湯上り貸バスタオル)
・共通入浴券(10枚):4,200円
・サウナ回数券(10枚):1,500円


◆飲食メニュー
・ソフトアイスクリーム 
定番の【バニラ】【チョコレート】 【ストロベリー】【抹茶】の他、季節限定メニューもあります。
是非、ご賞味下さい。


・生ビール 
・レモンハイ
・昔ながらの“びん”の牛乳、コーヒー牛乳、ラムネ等あります。

菊水温泉 アクセス
◆住所:兵庫県神戸市長田区久保町6-1-15
◆電話:078-611-4754


◆電車の場合

 ・JR・市営地下鉄山手線「新長田」駅より南へ徒歩8分
 ・市営地下鉄海岸線「駒ヶ林」駅より北西へ徒歩5分
◆バスの場合
 ・市バス「大橋5丁目」バス停より南へ徒歩1分


◆駐車場
 ・P1【コインパーク久保町】(当温泉北側)
 ・P2【アスタくにづか駐車場】(3番館3~5階) 

 

 

「これからが正念場」震災で全焼の銭湯が再建 神戸 

阪神・淡路大震災で全焼し、仮設店舗で営業を続けてきた神戸市長田区久保町六の老舗銭湯「菊水温泉」が四日、新店舗になって初めての営業日を迎えた。
廃業の危機を乗り越え、地元長田での再出発。
開業初日、心待ちにしていた常連客らが訪れた。(飯田 憲)
一九六三年創業。
下町の憩いの場として親しまれたが、震災で建物が焼け落ちた。
三代目店主の下向井(したむかい)博さん(38)は勤めていた会社を退職し、九六年春、跡地に仮設の銭湯を開業した。
被災地の区画整理で移転の提案もあったが、地元での存続を期待する商店主らの声に押された。
二〇〇四年に隣接する再開発マンションの土地建物の一部を買い取り、別棟で営業する形で建設のめどを付けた。
新店舗は昨年十二月に着工。旧店舗より一回り大きい露天風呂も整備した。
須磨区から来た女性(78)は「震災からずっと通い続けてきた。この日を楽しみにしていた」といい一番湯を楽しんだ。
下向井さんは「地域に支えられ、やっとこの日を迎えた。 震災から十三年、寝る間を惜しんで働いてきたけれど、これからが正念場」と気を引き締めていた。
【神戸新聞・2008年6月4日掲載から引用】
震災で全焼、仮設経て今春再建 神戸・菊水温泉

阪神・淡路大震災で全焼し、仮設店舗で営業を続けてきた神戸市長田区の老舗銭湯が今春、新装オープンする。
移転先が決まらず、一時は廃業も考えたが、存続を願う常連客や地元商店主らが廃業を踏みとどまらせた。
「あのとき、被災者の心と体をぬくめた銭湯を長田に残したい」。
三代目となる店主は新店舗での“再出発”を前に力強く語った。(飯田 憲)
同市長田区久保町六、銭湯「菊水温泉」。
一九六三年の創業で、下町の憩いの場として長年親しまれてきたが、震災で建物が焼け落ちた。
現在の店主は三代目の下向井(したむかい)博さん(37)。
避難所で打ちひしがれる父、稔さん(66)の姿に家業を継ぐ決心を固め、会社を辞めた。
九六年春、跡地に仮設の銭湯をオープン。
午後二時から未明まで営業、休みは月二回で、妻昌子さん(38)や両親とともに一家総出で働いた。
重くのしかかったのは、被災地の区画整理。跡地周辺が市街地再開発地区に指定され、移転の不安がつきまとった。
市から立ち退きと代替地を提案されたが、どうしても地元を離れる気持ちにはなれなかった。
二〇〇四年、隣接の空き地に市が手がける再開発マンションの建設が決まり、そこに店舗として入居することを打診された。
だがマンションではスペースが狭く、名物の露天風呂が消えてしまう。
別の場所での営業、さらに廃業も考え始めた矢先、地元商店主の仲間たちが「菊水をつぶしたらあかん」と声を上げた。
市は店主らの提案を受け入れ、下向井さんが再開発マンションの土地や建物の一部を買い取り、別棟で営業ができるよう設計を変更。
早ければ今年五月にも完成する見込みとなった。
「近くの商店街に活気は戻らず、新たな借金も抱え込んだ。不安はあるが、十三年間、菊水温泉をもう一度再建したくてがむしゃらに働いてきた。
やっと地に足をつけて商売ができる。それがうれしい」。
被災地で、三代続くのれんを守る。その決意は固い。
【神戸新聞・特集 震災13年・2008年1月9日掲載から引用】
震災「癒しの湯」再出発…神戸・長田

阪神大震災で全焼し、その後、12年間、仮営業を続けてきた神戸市長田区の銭湯が今春、隣接地で再建される。
市の再開発事業で立ち退きを求められる恐れもあったが、ほぼ同じ場所での再出発が可能になった。
被災者の心と体を温めてきた〈癒やしの湯〉を守るため、脱サラして父の後を継いだ下向井博さん(37)は「これからが本当の復興」と意気込む。
1963年、博さんの祖父が開業した同区久保町の「菊水温泉」。
近所のお年寄りや商店主らに親しまれたが、震災で煙突は倒壊し、炎に包まれた。
銭湯の上に住んでいた博さんの両親は近くの小学校に避難。父の稔さん(66)は毎朝焼け跡に通い詰め、肩を落とした。
「このまま終わるなんて、ふがいない」そんな姿がいたたまれず、博さんは会社を辞めて後を継ぐことを決意。
2億円近い資金をかき集め、翌年4月、銭湯を再建した。
「やっぱり大きな風呂がええわ」。
久々に顔を合わせたなじみ客からはうれしい言葉が返ってきた。
しかし、災害に強い新たな街づくりを目指す再開発では、共同ビルへの転居や、遠方への移転を強いられることもある。
「2、3年で立ち退いてもらうかも」と市担当者に忠告されたが、なじみ客が博さんを励ましてくれた。
「震災の前も後も、この銭湯が私らの心を温めてくれた。ここでずっと営業して」
再開発事業は難航したが、昨年ようやくめどがつき、「再開発ビルの一つ」として隣接地で再建することが決まった。
新しい銭湯はすでに基礎工事が完了。
博さんは「復興は楽ではないが、助けてくれたお客や地域のために銭湯を続けられることが何よりうれしい」と話している。
【読売新聞・2008年1月9日掲載から引用】
長田の復興願い銭湯再建「一生ここで」震災で全焼、廃業危機乗り越え

1995年の阪神大震災で全焼した神戸市長田区の銭湯が今年5月にも新店舗で再スタートを切る。
仮設店舗で営業を続けてきたが、正式な移転先が決まらず一時は廃業の危機に陥った。
新店舗の建設地は被災地で唯一、復興事業が継続中でにぎわいが戻らない市街地再開発地区。
長田の復興を願う経営者は「一生ここで銭湯を続ける」と決意を新たにしている。
「露天風呂は6人ほど入れる広さに」「洗面おけや鏡は客がなじんだ旧施設のものを」。
昨年12月中旬、神戸市長田区の「菊水温泉」を経営する下向井博さん(37)は設計図を開き、新店舗の青写真を描いていた。
新店舗は早ければ5月にJR新長田駅近くで建設が進む高層マンションの敷地内で開業する。
あの日。祖父が63年に創業した菊水温泉は大火に見舞われ全焼した。
2カ月後に指定された復興市街地再開発事業が事実上、店の本格再建に待ったをかけた。
新長田駅南は総面積20.1ヘクタール、総事業費約2710億円という全国最大級の再開発地区。
約40棟のビルやマンションが建設される計画だが、震災から13年近くたっても完成したのはおよそ半数。
商店街ではシャッターを閉めた空き店舗が目立つ。
人口の回復が鈍く店舗の入居にメドが立たないため、工期が遅れる悪循環が続いている。
菊水温泉は震災から1年3カ月後、下向井さんが脱サラして経営を継ぐことを決め、跡地近くに建てた仮設店舗で営業を再開した。
徐々に客は戻ったが、不安は付きまとった。
再開発の計画次第で移転を余儀なくされるためだ。
事業主体の市から提示された約5カ所の代替地は狭すぎたり遠かったり。
下向井さんは「長田の復興を願って再建した銭湯や。遠く離れるくらいなら廃業するしかない」と覚悟を決めていた。
3年前、隣接する空き地に高層マンションの建設が決まり、入居が打診された。
しかし、マンション内では自慢の露天風呂が設置できない。
あきらめかけていたところ、商店主の仲間が声を上げた。
「菊水温泉は震災直後に疲れた住民が癒やされた名物銭湯。存続させたい」と市側に懇願。
市はマンションの敷地内に別棟を建設する設計変更に応じ、正式店舗への移転が決まった。
前途は決して明るくない。
仮設店舗建設で抱えた借金が残っているうえ、移転に伴う新たな負担がのしかかる。
それでも、下向井さんは「ようやく地に足をつけて商売ができる。生まれ育った街の復興を見届けたい」と誓っている。
▼住民の希望を市が取り入れた 。
再開発事業に詳しい神戸大工学部・塩崎賢明教授(都市計画)の話。
菊水温泉の再建が今後の街づくりの弾みとなることを願う。
神戸市が住民の希望を聞き入れ、再開発の計画に生かしたことは大きな成果だ。
同地区は他にも地主と市役所の交渉が難航している場所がいくつかある。
計画を変更するなど柔軟な対応をしなければ再開発のメドは立たない。
【日経新聞・2008年1月3日掲載から引用】
脱サラ 銭湯再建

「長田の大火」で全焼した銭湯を父とともに再建、被災者の憩いの場として「番台」を守ってきた下向井博さん(32) 
(神戸市長田区久保町6)は午前5時46分、父・稔さん(61)や娘ら6人の家族に囲まれ、番台の前のテーブルに立てた7本のろうそくに手を合わせた。
40年前、祖父が始めた「菊水温泉」。
被災後、一家は近くの小学校に避難したが、稔さんは毎朝、跡地に通い、再開した近所の銭湯を巡り、被災者がうれしそうに銭湯に集う姿を見て来た。
「おれも銭湯をやりたい」。
かつての常連客から、「早く風呂やってくれよ」と声をかけられ、悔しくて一人、泣いた。
父の姿を目の当たりにし、博さんは脱サラを決意。
資金をかき集め、翌年4月、再建を果たした。
なじみの顔ぶれが浴場にそろい、仮設住宅のお年寄りらも訪れ、父に笑顔が戻った。
この区画は再開発地区に指定され、いずれは立ち退かなくてはならないが、この場に集う人々がいる。
博さんは「まだ多くの被災者が不安を抱えている。 この人たちの心と体を癒やせるよう、もし立ち退いても、この地で銭湯を続けていきたい」と誓う。
【読売新聞・平成15年1月17日掲載から引用】
湯絵100選 第4番札所 『長田富士』

阪神大震災で全焼、1年半後に再建された神戸市長田区の銭湯に8日、<復活>への願いを込めた湯絵がお目見えした。
全国の銭湯や温泉施設など100か所に富士山を描く「風呂絵百選」に挑戦している漫才コンビ「ちゃらんぽらん」の大西浩仁さん(41)の4作 目で、燃え上がるような赤い富士を描いた大作。
大西さんは「震災から立ち上がるエネルギーを表現した。被災地の人たちにそれを感じてもらえれば」と笑顔を見せた。
同区久保町6の「菊水温泉」。
約40年前に下向井稔さん(61)の父親が始め、震災直後の火災で全焼。
稔さん一家はやむなく近くの小学校に避難した。
「早く風呂をやってくれ」という客の声に押され、稔さんは銭湯の再建を会社員だった長男の博さん(32)に相談した。
博さんは半年近く悩んで、家業を継ぐことを決心。
2億円近い借金をして、1996年4月に営業を再開した。
大西さんとは共通の知人を介して知り合った。
尼崎市で祖母の代から銭湯を営んでいた大西さんの実家は、震災で煙突が傾いて半年後に廃業。
脱衣場で漫才の練習を重ねたという大西さんは「風呂は僕の原点。頑張っている風呂屋さんにエールを送りたい」と 今夏から、二科展に入選したこともある腕で「風呂絵百選」に挑戦。
8月には有馬温泉(神戸市北区)の日婦り温泉施設に第1号を寄贈した。
漫才コンビ 「ちゃらんぽらん」 の大西浩仁さんが、当湯を湯絵100選、第4番札所として、 当湯ロビーにて、赤い富士山がそびえ立つ1・45メートル四方の大作『長田富士』を3時間かけてキャンバスに描きました。 平成14年11月8日(金)午後1時~


人間情報誌 BIG tomorrow「熱き男たち」第9回

震災は 一瞬にして多くの人の 人生を変えた。
愛する人を亡くした者、 職を失った者、 住む所を無くした者 ・・・
だがすべてが壊されたからこそ 生まれてくるものもあった。
ここにも・・・
親は親、自分は自分。
まして朝から深夜まで休みなく働く姿を目の当たりにしていたら 同じ職を選ぶ者はごく少数・・・。
この男は?
オープン初日は午後2時から5時まで、3時間だけの営業やったんですが、開店前から、お客さん、行列で・・・
『よかった、よかった』いうて、泣きながら待っていてくれたおばあちゃんもいたんです」
’96年4月26日。
神戸市長田区にある銭湯、菊水温泉が約1年3か月ぶりに営業を再開した。
阪神・淡路大震災で壊滅的なダメージを負ったこの町で、一度は全焼し、跡形もなく消えてしまった菊水温泉の再建は、ある意味で”復興の象徴”でもあった。
菊水温泉の主人、2代目の下向井稔氏はいう。
「後継ぎがおらんでも、風呂屋は人を雇ってできる商売やからね。
まさか、息子と一緒に風呂やるとは、夢にも思わなかった」
再建した菊水温泉には、昔ながらの銭湯という面影はない。
入浴客の中には「喫茶店よりもくつろげる」という理由で、5時間入っている人もいるという。
菊水温泉は、客が心の底からリラックスできる近代的な施設として生まれ変わった -当時25歳だった3代目、下向井博の若い発想で。
「この商売、どっちかいうたら衰退産業ですから、いまの時代にやるからには、これまでと同じことやっても、 お客さんを増やすことはできんと思うたんです。だから大阪のほうまでいろんな銭湯見に行ったりして、いいとこ、悪いとこ勉強して、どこにも負けん風呂にしよう、思うたんです」
当時、下向井はサラリーマンだった。
会社が終わると、連日のように工務店と打ち合わせ。
設計段階で図面は10回以上も書き直した。
そして、震災から9か月後に着工。
「事前に神戸市のほうから言われていたんです。壁とかガラスとか、耐震性や耐火性の強いものを使わなあかん、けど・・・、すぐに潰せるように、と」
菊水温泉の敷地は、神戸市の『震災復興第二種市街地再開発事業』の計画区域に入っていた。
2003(平成16)年前後をメドに、菊水温泉のある「新長田駅南第1地区」は、高層ビルが立ち並ぶ神戸市の副都心として様変わりする。
「そうなるいうことは、震災から2か月後にはわかっていたんです」
再建しても、数年後には潰される -それを承知で、下向井はサラリーマンを辞め、菊水温泉を継ぐことを決断した。
生まれ育った家が灰だけ・・・

菊水温泉は63(昭和38)年に開業。
所在地の大正筋近辺には、「震災前は200メートおきに風呂屋があった」と、父・稔氏は話す。
地元の住民から親しまれる商売。
だが、家業を継ぐという気持ちは、下向井の頭の中にはまったくなかった。
「子供の頃から大きくなったらこうなりたい、いうのは全然なかったんですよ。こんなこと言うたら怒られるかもしらんけど、大学出て、どこかの会社に入ってサラリーマンになるんだろうなと、自分の将来についてはそれくらいにしか考えていなかった」
’92年。大学を卒業後、神戸市内のコンピュータ会社に就職。仕事はソフト開発。
「神戸が好きやったんで、神戸の会社で働きたかったんです。システムエンジニアいう職種は、将来性があるんかなと思って」配属先は公共システム部。
ユーザーは兵庫県や神戸市といった自治体、あるいは県や市の外郭団体だった。
「仕事はおもしろかった、というより、おもしろくなりかけたという感じで。会社の人も、いい人ばっかりで、苦労とか、不満とか、あまり思うたことはなかった」
’94年春には結婚。長田区内のマンションで、小さな家庭を築き始める。
祖父の後を継いで銭湯を経営する父とは違った自分の人生を、下向井は順調に歩んでいた…’95年1月17日、午前5時46分までは。
「家中の家具がガッシャーン、ガッシャーン、倒れてきて。揺れがおさまってから、窓を開けたら、外は真っ白やった。 街中の家が崩れて、砂埃でなんも見えなかった。
自分では、かなり冷静やったつもりなんですよ。
けど、急いでリュックサックに貴重品とか軍手とか詰めて、妻の実家と、僕の実家と、順番に駆けつけたんですが・・・、後で見たら、リュックの中になぜか砂糖1キロ入ってましたわ」
妻の実家は歩いて数分。全壊だった。
埋まっていた妻の母と祖母とを救出し、自転車で実家に駆けつけたのは午前8時頃。
「煙突が、3つに折れて、倒れていました」が、鉄筋の建物は無事だった。
脱衣所は緊急の避難所になり、両親は集まってきた被災者の世話をしていた。
実家は大丈夫やった -下向井はひとまず自宅に戻った。
高台にあるマンションからは、実家付近が一望できた。
そこに、煙が見えた。そして、ラジオから聞こえてきた災害惰報。
「大正筋付近が燃えてるいうて・・・・・・、それで心配になって、もう1回行ったんです」
菊水温泉に火が回ったのは、午後2時過ぎ。
下向井の母・幸子さんはいう。
「火が回る前には近所の小学校に避難していましたけど、やっぱりじっとしていられなくて、家が焼ける様子をずっと見ていたんです。 なんか、人ごとみたいな、夢みたいな感じで。消防の人からも『水が出ないからあきらめてください』いわれて。ツラかったですけど、 一瞬、これで風呂屋の毎日のえらい仕事から解放されて少しは楽ができる、なんて、おかしなことを思ったり」
全焼するまで、およそ2時間。
コンクリートの壁と柱だけが残った。
「次の日、建物の中に入ってみたらね、中のモノが全部焼けて、灰になって床に積もっているんです。風呂屋にある、10円玉入れて動くあんま機があるでしょ? あそこに入っていた10円玉が焼けてひっついて、ダンゴになってましたわ」(稔氏)  下向井にとって、菊水温泉は思い出のつまった生家でもあった。その家が、焼けた。下向井は、短く、こう話した。
「みじめでしたね」

オレも一緒にせなあかんと 震災後、かろうじて倒壊しなかったマンションで、ケガを負った妻の祖母を介抱しながら、下向井は生活していた。
が、家の中は、都市直下型大地震を体験した被災者にとって、安住の場所ではなかった。
「また来たらどないしよう?そう思うと、家の中にいるほうが怖かった」両親は避難所で暮らした。
震災から約1か月後、父・稔氏は初めて風呂に入った。
「よその銭湯へ行ったんですわ。そのときはもう、涙が出たね。恥ずかしいて、惰けのうて・・・・・・。 お客さんの中には、1か月前までウチの風呂に来ていた人もいっぱいいたんですよ。その人たちに、風呂屋の私がなんにもしてあげられない。もう、体も満足に洗わんと、5分くらいで私・・・・・・、逃げるように帰った」
3月には避難所から長田区内のアパートに移った。
しかし、銭湯へ行くときは、顔見知りがいないような遠くの銭湯を選んで、わざわざ通っていたと稔氏はいう。
「そのうち、何か収入を得なあかんいうことになってね。土地はサラ地になっとったんで、最初は駐車場にしようかと思うたんですが、月に20万円くらいにしかならんといわれて。それやったら人に貸そうか思うたんやけど、一度人に貸すと、のいてくれ言われへんからな。これは自分で何か商売始めなあかんと。そう考えたら、風呂しかないんですわ、私にできるのは」
稔氏は、菊水温泉の再建を決めた。
が、それはあくまでも震災前と同じやり方でやる、ごく普通の銭湯だった。
もちろん、息子の力はアテにはしていなかった。
しかし、「夏ごろやったと思います。また風呂やるいうのを僕が聞いたんは。親から手伝ってくれ、言われたことは一度もなかったんですが、風呂するんやったら、家族がまとまらなあかんな、オレも一緒にせなあかんな、と。迷いはなかったです。そういうときが来たんだなと思っただけで。ただ、震災後やなかったら、サラリーマン辞めて風呂しようとは、思わへんかった」(博) 休みはゼ口。
でも苦にならん 昔の銭湯にはつきものだった”番台”は、菊水温泉にはない。
あるのは”フロント”。そしてロビーには飲食のスペースもある。
320円の入浴料も、自動券売機で券を購入する。
浴場には、通常の浴槽だけでなく、電気風呂、ジエットバス、水風呂、サウナ。窓の外には露天風呂もある。
「風呂屋いうのは、なかなか後からお客さんを増やせないんです。オープンしてすぐに、どれだけ大勢のお客さんに来てもらえるか、来てもらったお客さんにどれだけ気に入ってもらえるか。そして、気に入ってくれたお客さんを、いかにして減らさないようにするか、それが勝負なんです」
客に気に入ってもらうために下向井が考えたアイデアは、いたるところに見て取れる。
床に段差をなくし、壁に手すりを付け たのは、お年寄りへの配慮。
露天風呂には小烏のさえずりや虫の音のCDを流し、さらに、手間がかかることを承知で、造花で はなく「ナマの鉢植え」を置いている。 (中略)
オープン後、半年間は無休で営業した。
新しいアイデアは営業しながらも次々に形になっていった。
(省略) オープンー周年には 家電製品が当たるくじ引きサービスも実施。
アンケートを取り、客層をつかむといった調査も行なっている。
「こうしたらどうやろ?ああしたらええんちゃうか?いつも風呂のことばかり考えてます。けど、それが苦にならないんです」(中略)
毎日の仕事の中で、下向井がもっとも気をつけているのが衛生面。髪の毛1本落ちていないよう、こまめに掃除をする。
「よく来てくれる小学生に、『おにいちゃん、いっつも掃除してるね』って言われたことがあったんですよ。嬉しかったですよね。 そうやって、見ていてくれるお客さんがいるんだなと思うと、励みになって、もっときれいにしようと思うんです」
汚ければ、客は黙って来なくなる。
逆に、いつもきれいにしていれば、その評判が口コミで伝わる。
わざわざ遠くから足を運んでくれる客も出てきた。(中略)
休みの日はタイルの目地を修理したりする。下向井は、二児の父でもあるが、ゆっくり家族サービスもできない。
「そういう商売やいうのは、子供の頃から親を見て、知っていましたから」 と、下向井は苦笑する。が、その表情には”満足感”が浮かんでいた。
銭湯の業界では、1日100人程度しか客が来ない「100人風呂」が数多くあるという。
そんな向かい風の中で、菊水温泉には平均して300人前後の集客がある。 下向井はいう。
「震災の前より、お客さん増えたんです」 320円を積み重ねていく商売や 菊水温泉の3代目について、父・稔氏は 「まだ2年半やけど、だいぶ風呂屋らしくなりましたわ」と話す。
風呂屋らしくなるまでに、下向井が一番戸惑ったのが、接客だったという。
「サラリーマン時代はコンピュータと向き合って仕事してましたし、僕自身、どっちかいうたらひとりでコツコツする仕事が好きやねんけど、フロントにおったら黙ってるわけにはいきませんからね」   客と顔なじみになれば、必ず一言二言話しかけられる。
そこで「無愛想な兄ちゃん」と思われてしまえば、それだけで客足は遠のく 。
「お年寄りのグチとか、病気の悩みとか、話が長くなることもあるんですよ。 若い僕なんかにはピンとこない話もあって、戸惑うこともあるんです。それでも一生懸命話を聞いてあげると、喜んでもらえて。 で、次来られたときに、ヤキイモお土産にくれたり(笑)」
入浴は、人が1日の中で一番リラックスする瞬間かもしれない。
客は、飾り気のない生身の人間性を晒(さら)し、喜怒哀楽を露(あらわ)にする。
「お客さんには被災した人が多いんです。家をなくして仮設住宅に入っている人も大勢いらっしゃいます。そういう人たちからいろんな話を聞くんです。いつも元気なお客さんが、じつは地震で僕らよりももっとたいへんな目に遭うていたり。そうかと思うと避難所で知り合って結婚したいうご夫婦がいたり。人間味のある商売ですよ、風呂屋は。 それから親子でみえるお客さんを見ていると、子供の叱り方とか、ものすごく勉強になるんです。風呂屋になったことは自分の 人生にも大きなプラスやったと思いますね」
風呂屋を継いだ下向井にとって、現在唯一の悩みが、すでに一部で着工が始まっている街の再開発。
いずれは土地と建物を神戸市が買い取ることになる。
「いまの状態でいつまで商売できるんか、市に聞きに行ったんですよ。そしたら、あと2年はできる、3年となるとわからん、と。市に買い取られた後は、新しく建てたビルの床をもらういうことになっているんですが、等価交換やからどれだけのスペースになるかわからんし。 それに、風呂はビルの中ではやりにくい商売なんです。だから、ビルの中やなしにどこかに代替地をもらうことは可能なんかとか・・・・・・、 いろいろ考えるんですが、考えるだけで、いまは何も動かれへんのです」
菊水温泉を再建するために、2億円近い借金をしたという。
それだけの大金を返済するために、下向井はいま、一人一人の客から得る320円という入浴料を積み重ねている。
「僕は経理もやっているんですが、風呂屋は、バカ儲けできる商売やないです。売上を銀行に持って行くんでも、小銭ばっかり、 10キロくらいあるんですよ(笑)。でも、この”重み”のありがたさは、やってる人間やないとわからんと思います。小銭しか稼がれへん商売やけど、僕はいまの仕事、誇りを持ってやってます-」

ビッグ・トゥモロウ
第223号 1999年1月1日 発行 (株)青春出版社 
発行 取材 ・ 文 伴田 薫 氏 ・ 撮影 内藤 利朗氏 ・Design HIRUMA Shigeo氏
【「ビッグ・トゥモロウ」 第223号 1999年1月1日掲載から引用】
朝日新聞 おやじの銭湯 ゼロからの再建

店じまいが早い被災地の商店街に、夜遅くまで営業する銭湯の明かりがもどった。
阪神大震災で焼失し、1年以上さら地になっていたが、「好きなふろ屋をもう一度開きたい」という父親の思いに、 サラリーマンだった一人息子が会社を辞めて協力し、再建にこぎつけた。
神戸市長田区久保町6丁目の「菊水温泉」。
33年前に下向井稔さん(54)の父親が始めたこの銭湯は、 震災直後の火災で全焼。
稔さん一家はやむなく近くの小学校に避難した。
避難所生活が2週間ほどたったころ、稔さんは近くで営業を再開した銭湯に行った。
1時間ほど並んだ行列には、菊水温泉のお客の顔もあった。
震災後初めて体を洗ったが、 「ちょこんと湯船につかっただけ」で逃げるようにして帰った。
「焼けた自分の銭湯を思い出した。くやしくて、寂しくて、情けなかった」
毎朝、自転車で銭湯の跡地に通った。 再建には億単位の資金が必要だが、工面のあてはなかった。
しかし、稔さんは再建の思いをあきらめ切れず、春になって長男の博さん (26)に気持ちを打ち明けた。
博さんは大学卒業後、神戸市内のコシピューターソフト会社に就職していた。
「親は親、僕は僕」との思いはあったが、これまで家族の言うことに耳を貸さなかった父親が震災後、 何かと相談するようになったのを見て、心が揺れた。
「オヤジは『一緒にやろう』とは決して言わなかった。
でも、一緒にやってほしいという気持ちは、そばにいるだけで伝わってきた」。
12月、博さんは退社した。
博さんのほか、近くに嫁いだ稔さんの長女(25)やOLの次女(22)も「店を手伝う」と言い始めた。
再建資金の1億5千万円は、神戸市や国民金融公庫からの低利融資で用立てた。
菊水温泉は今年4月26日、女性に人気のある「塩サウナ」や露天ぶろなど、最新の銭湯と してよみがえった。
兵庫県公衆浴場業環境衛生同業組合によると、神戸市内の銭湯は震災前には186軒あった。
しかし、現在営業している店は100軒前後にすぎない。
震災で銭湯の数が半減し、再建できないのは、 経営者の高齢化や後継者難に加え、震災による常連客の離散などが原因という。
そのなかで菊水温泉は、「ゼロ」からの再建を果たした第一号になる。
「朝日新聞」  <朝刊> 平成 8年 6月 3日掲載から引用
ふろ屋さん”復興の春”

震災で全壊、全焼した神戸市内のおふろ屋さん3軒が、更地から再建し、相次いで営業再開する。
公衆浴場の再建には億単位の先行投資が必要なうえ、客離れが進み、後継者不足などもあって再建が難しいとされ、 市内の浴場数は震災前に 比べ今も半減したまま、震災から1年以上を経て、ようやく業界にも”復興の春”のきざしが-。
26日に営業再開するのは神戸市長田区久保町6の「菊水温泉」。
市街地再開発地域に指定され、 建築制限から本格建築ができず、鉄骨2階建てでの再建になった。
被災者にとって貯金をとリ崩す生活にも限界がある。
「好きなふろ屋をもう一度開きたい」という主人の下向井稔さん(54)の思いを実現させようと、 長男の博さん(26)が会社勤めを辞めた。
昨年10月に着工。
稔さんの長女、二女らも応援して、7人が家族ぐるみの共同経営に乗リ出す。
オープン当日は午後2時から5時までの営業で無料サービスする。
設計を請け負った大阪の建築事務所の所長が岐阜県出身だったことから、 下呂温泉旅館組合などの協力で下呂の湯を 使うという。 ~ 中略 ~
県公衆浴場業環境衛生同業組合によると、神戸市内の浴場数は震災前の平成6年12月末に186軒あった。
しかし、今年3月末現在で営業している店は101軒。
営業再開する3軒はいずれも跡継ぎがいたケースだが、被災で近所の住民が少なくなったこともあリ 「客足がどれだけ伸びるかが不安」と口をそろえるが、 いずれも「被災した住民が心身ともにくつろげる、アットホームなふろ屋を目指す」と張り切っている。 
【「神戸売聞」<夕刊>平成8年4月25日掲載から引用】

 

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